月刊エッセイ       


[2002年5月]

■  社会派ミステリーは生き残れるか


 タイトルを打って(あーあ、今月も、えらく真面目なテーマになってしまったなあ……)と、改めて思いました。1月、2月とアホ原稿を書いていたものが、3月にちょっと真面目なものを書くと、とうとう「社会派」なんて言葉までまで登場してしまった。私は、もともと固い性格なのかもしれませんね。そのうち、またアホ原稿も書きますから、今月はこのテーマでご勘弁のほどを。

 先日、インターネットを見ていたところ、「社会派ミステリー」の後に(死語?)と付け加えられている文章に出っくわしました。もう立派に棺桶かお墓に入っている死人扱いされているわけですね。しかし、コケにされるのも無理はない。松本清張さんから始まり、一時は社会派でなければ推理小説でなしとまで言われたこの分野も、今では新本格やサスペンス、クライム・ノベル、ホラーなどに押しまくられ、書く作家も2、3人。トキやパンダと並んでレッドデータ・ブックに載るのではないかと危惧されているほどの凋落ぶりです。だいたいが編集者からして、社会派と聞くや、眉をひそめ、「うむむむ……」と唸り、(俺が現役でいる間は、絶対に出版してやらんぞ)という態度を全身で示してくるありさまです。

 ところで、私の小説は、なぜか、この「社会派」に分類されているらしいんですね。本人には、その意識がまったくないにもかかわらず、そっちに入れられてる。一時、
(社会党も潰れたし、社会主義もダメになった。社会派推理小説ってのも、縁起が悪いな……)
 と考え、「同時代小説」を名乗っていた頃もありましたが、業界の目は厳しく、「あいつは社会派だぞ」と、まるで隠れキリシタンか戦前の共産党員(アカ)みたいに後ろ指をさされたりもしました。

 どうして社会派を名乗らないかというと、私、松本清張さんみたいに社会とガップリ四つに組み合うような意識があまりないからなんですね。実際、私が小説を書く時は、かなり私的な思いから物語をスタートさせます。最新作の「絶対零度」を材料にして、そのあたりのことを解説してみましょう。あの小説の中には、覚醒剤の蔓延やコンピューター・ゲームなど、現代の社会に関わるさまざまな問題が出てきますが、いちばんのテーマは「日本では、傷ついて集団から押し出されると、どこまでも落ちていく」というものであります。

 私が自ら蒔いたタネで高校時代に集団から浮いていたことは、先月号の「ぼくが青春小説を書けない理由」で述べましたが、自業自得の結果とはいえ、一方で(掟に従わなければ、仲間に入れてやらないぞ)みたいな空気が、学校や地域にあったことは、理解していただきたいんです。幸い、高校時代は大きくつまずくこともなかったので、浮いたことによるダメージは受けませんでしたが、もし何かにつまずいていたら、相当な孤独地獄に落ちていたのではないかと、今でも思っているほどです。

 現在、私は千葉県我孫子市に住んでいますが、そこは茨城県とも近いんですね。そして、視線を千葉県や茨城県に向けると、私や妻の友人や知人は皆、結婚して家庭を築き、子供もいてマイホームもある「良き市民」としての生活をしています。しかし、視線を逆方向、東京のほうに向ければ、独身中年や子供のいない夫婦、離婚経験者、賃貸住宅生活者、遊び人、同性愛者まで、型にはまらない人生を送っている人間がごろごろしていて、その違いは驚くほどです。つまり、東京は、掟のある集団から逃げ出してきた人が住んでいる場所ではないかと常々思ってきたのですが、そこに住む彼らも、会社とか子供の通う学校とかに縛りつけられて、かなり窮屈な思いをしている。
 結局、日本という国は、どこへ行っても、集団から逃れられないのではないか−−そんな思いから書き始めたのが「絶対零度」ですし、以前、新潮社から出した「窒息地帯」という作品も似たような思いが基となっています。つまりは、私の小説の場合、社会を描いていたとしても、個人的な恨みつらみとか思い込みがベースになっている、ある種の「私小説」ではないかと、私自身は考えておるのですよ。

 なにか七面倒くさいこと書いちゃったみたいだなあ。もっと簡単に言いましょう。社会派だ、サスペンスだ、クライム・ノベルだといっても、それは作家個人の興味による差であって、どれも親類みたいなもんなんです。たとえば、32歳の専業主婦の花子さんが、浮気に走って、とうとう殺人まで犯すというストーリーを考えてみましょう。

 じつは私の家では家庭内ワークシェアリングが実施されています。週の半分は私が家事を担当していて、「こんな時代だから、家庭内ワークシェアリング」というノンフィクション実用書でも出そうかしらんと思っているほどなのです。まあ、執筆を中断してダイコンを切ったりするのは、けっこう世の無情を感ずる作業なのですが、作家として良かったのは、主婦の心理がなんとはなしに分かるようになったことです。
 専業主婦ってのは、大変ですねえ。いえ、仕事がきついという意味ではありませんよ。家電製品の進歩は著しいし、半調理済み食品は数を増やしているし、仕事自体は、けっこう楽です。大変なのは、すべてが減点法の仕事であること。
 洗濯は、汚れた服がきれいになって当たり前。掃除も、室内が清潔になって当たり前。料理は、美味しく食べられるものができあがって、当たり前。夫からも他人からも褒められることはないし、唸ってしまうほど美味しい料理ができたとしても、お客さんが増えて、お店が繁盛するようなことはありません。恐ろしく刺激のない日々の連続なんですね。一週間やそこらならともかく、こうした仕事を365 日やっていれば、自ずと刺激を求める気持が心に芽生えるはずです。

 で、花子さんであります。家事を午前中に片づけてしまった彼女、ふと鏡を見ると、目尻の小皺が増え、頬のあたりが心なしか寂しくなった顔が写っています。家事をするだけで、このまま歳をとっていっていいのかしら。そう思っているところに、携帯電話にメールが入ります。液晶画面に映し出されたのは「素敵な出会いをしませんか」という出会い系サイトのご案内−−と、ここから、先は皆さんもご想像どおりの通俗的展開。花子さんは、とうとう17歳の少年と関係を持ってしまうのです。

 でもって、妻の刺激を求めざる得ない気持や夫の無理解について書き込んでいくのが、社会派の小説。いや、そんなものはどうでもいい。出会って、ホテルに入って、くんずほぐれつの場面をもっぱら描くのが官能小説。17歳の少年との関係は一回きりにしたかったのに、つきまとわれて恐ろしい目にあうのが、サスペンス。その少年がじつはゾンビだったというのが、ホラー。つきまとわれて困り、同じく浮気をしている主婦と協力して、その少年を殺し、死体をバラバラにしてゴミの日に出してしまうのが(どこかで、読んだことある筋書きだなあ)、クライム・ノベル−−という具合で、どこに力点を置くのかで、ジャンルが分かれるだけの話でもあります。

 ここで考えてほしいのが、上に挙げたジャンルのうち読者の多くがどれを読みたいかということです。なんとなく見ていっただけでも、暗そうだったり、理屈っぽかったりして、一番最初の社会派にはあまり食欲が湧いてこないでしょ。小説をエンターティンメントとして扱ってみると、どうしても、このあたりが弱点となってくるんですね。

 以前、私が「神の柩」を出した時、
「こんな暗い時代に、重苦しい小説を出したって、読者が受け入れるはずないじゃないですか」
 と、ほざいた編集者がおりました。失礼な発言ですが、彼の言い分にも一理はあります。
 じつは社会派ミステリーが隆盛を誇っていた昭和の時代は、日本の高度成長期で、読者にも心の余裕があったんですね。心の余裕があれば、高度成長で生じた歪みを反省しようという気分にもなる。そんな時代に生まれたのが、たとえば、有吉佐和子さんの「複合汚染」だったりするわけです。
 ところが、今はこういう時代ですから、読者の多くに心の余裕がない。「反省は心の余裕から生まれる」という名言もありますし(すみません、私が今、作った言葉でした)、それゆえ、余裕がない時代には、一種の反省小説である社会派ミステリーは、なかなか受け入れてもらえないですね。

 また、小説の舞台となる社会そのものも大きく変わっています。以前は「国の政策の犠牲になる庶民」とか「会社の中で奴隷のように働かされるサラリーマン」とか、加害者と被害者、強者と弱者がはっきりしていた。したがって、横暴な強者を告発する社会派推理は、多くの人からの喝采を受けました。しかし、今の時代は、強者vs弱者という構図で小説を書くと、嘘になってしまう。

 援助交際している女子高生に話を訊くと、「だって、お金がなけりゃ、何もできないじゃん」という答が返ってくるそうです。
 たとえば、Aさん。彼は、今ブームになっている小中学生の女の子向けの衣料品メーカーに勤めています。ファッショナブルな子供服を次々に企画して、女の子の親や祖父母にお金を遣わせています。「お金さえあれば、こんなに楽しい生活が送れるよ」と、子供たちに一種の洗脳を施しているわけです。
 また、Aさんには中学の娘さんがいます。その娘さんが、なんと援交をしてしまった。どうしてかといえば、「お金が必要だったから」
 Aさんは自分がしていることの復讐を受けたわけですが、こうしたことは、今の社会では、いくらでもあります。加害者が別の面では被害者となり、被害者が加害者となったりする。でも、それをそのまま正直に書くと、読まされたほうは、気持があまりスッキリしませんね。
 水戸黄門の印籠みたいに、事態にスッキリ白黒をつける、つまりはカタルシスを読者に与えるのが、エンターティンメント小説にとっては、もっとも重要なポイントなんです。でも、社会派推理小説では、それがものすごく難しい時代になってるんですねえ……。

 この先、社会は複雑になる一方だし、世相の暗さも当分は(下手をすると、日本では永遠に)変わらないでしょう。したがって、社会派推理小説が生き残れる可能性も極めて小さくなっているような気がします。ただし、社会現象をミステリーの形で書くのではなく、大きく表現法を変えれば、かなり面白い小説ができるのではないか−−そう考えて、私は今、新分野(どんなものかは、まだ言わないよ)の開拓を試みているんです。

 しかし、社会派推理の書き手だとされている私が、社会派推理には未来がないんじゃないかって書いちゃって、いいものかねえ。天にツバする行為のような気もするし……だけど、このホームページはホンネを書くことになっているんだから……気の弱い作家は、いろいろと悩みながら、次号へ。




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